インテリアは老人ホームでの生活を変える力があるはずだ
先日こんな記事を見つけた。
機能的な面が重視されている殺風景な老人ホームの個室の扉のデザインを、入居者の家の扉にしてしまうという取り組みだ。
記事によると、オランダに始まって欧州に広がるプロジェクトなのだそうだ。
扉そのものを付け替えるのは大変なので、デザインを印刷したステッカーを張るという手法を取っているらしいが、それでも入居者には好評なよう。
認知症の方々の記憶の扉を開けることにも繋がっているらしい。
なんと素敵な取り組みなのだろうか。
インテリアに凝るというのは、単なる贅沢ではない。
気に入った小さな置物一つ置くだけで気分が明るくなる。
それはとても小さく些細なことなのかもしれないが、それの積み重ねがどれだけ毎日の生活の支えになるだろうか。
いそがしい家事の合間にほっこりできたり掃除をする意欲が出てきたり、人を呼びたくもなってくるだろう。
身も心も外出の緊張から解き放つ居住空間で、カーテンや絨毯、テーブルや椅子などのインテリアをお気に入りのものにして心身の居心地よい空間にすることは日々を楽しく生活するうえでとても重要なのだ。
もう今はいない私の祖母は、脳梗塞で倒れてから数年間老人ホームのお世話になった。
祖母を訪ねて何度も祖母のいる老人ホームへ行ったが、やはりインテリアは心躍るようなものではなかった。
木製の家具などで温かみを出そうというのはなんとなく伝わってくるのだが、どうしても機能面が重視された鉄パイプのベッドやビニール製のクッションの椅子などからは居心地の良さそうな雰囲気は感じ取れない。
介護の現場には必要不可欠なものなのだろうが、そういうところで生活していると、認知症が進行してしまうのも仕方のないことなのかと思ってしまう。
入居者や介護士が作った折り紙の作品などが飾られているが、それを心地よいインテリアとは思えない者も多いだろう。屈辱的に感じて気が滅入ってふさぎ込んでしまう人もいると私は思っている。
安全管理の点からもインテリアには大きな制約が出てくるのだろう。経済的な面でもそんなところにお金をかける余裕はないのかもしれない。
そういう裏事情はいくらでも想像できるのだが、自分が50年後にここに入りたいと思うかと聞かれたら、やはりどうしてもそう思えない。
きっとその時になれば面倒を見てもらえるだけありがたいと思うに違いないのだろうが。
私は今、家族と賃貸のアパートに暮らしている。
転居はこの2年ほどで3回もした。
どの家も壁は真っ白。もう飽き飽きだ。
家を購入するときは、絶対に色と柄の入った壁紙で部屋を飾ろうと心に決めている。
真っ白から解き放たれ、好きな色と柄に囲まれるのだ。
考えただけでウキウキする。テレビや雑誌で素敵なインテリアを発見すると、こんな色の壁紙だとこういう印象になるのかとか、こんな大胆な柄でも馴染むんだなとか、どんな家具が合うのだろうかとか、細かいところまで目が行ってしまう。
そういう創作的な意欲を掻き立てるのも、インテリアに凝ることの良い面だと思う。
経済的なことはひとまず置いておき、老人ホームのインテリアがもし入居者の自由にできるようになったらどうだろうか。
例えば、入居の際は壁紙とカーテンを選ぶところから始まる。
億劫な老人ホームへの入居が少しは楽しいものになるのではないだろうか。
内装が整ったら引っ越しだ。馴染み深い置物や敷物で部屋を飾れば、さらに居心地はよくなるだろう。
きっとそれは、記憶を留めて置くことにも繋がるだろう。
共有スペースも、例えば食事をするところは、椅子を全て違うデザインにするだけでも面白いだろう。
入居者が自分の椅子だと認識できるのも良いことだと思うし、自分専用の席があるという感覚も自身の存在意義の良い支えになると思うのだ。
インテリアの重要性が認識され、老人ホームへの入居が新生活、または第二第三の人生の幕開けという楽しいものになるよう願う。
そうなるようには何をすれば良いのかを考えるのは、私たちのやるべきことの一つだ。
その第一歩として、どう活かせるかは今はまだわからないが、こういうアイディアも書き溜めてみようと思う。
労働の価値は――格差社会を考える
格差社会と呼ばれることも多々ある昨今の日本。
働いても働いても貧困から抜け出せない人たちがいる。
一例として保育士という仕事を取り上げて考えてみようと思う。
保育士の場合
保育士の薄給については様々なところで取り上げられ、多くの人が認知することとなってきた。
生活するには厳しい給料でありながら昇給も望み薄な環境で、持ち帰り残業をしながらダブルワークを余儀なくされる方もいるという。
上記のリンクの記事にある「母性を利用されている」という言葉が衝撃的であり悲しく響く。
保育士全てがこういった状況にあるわけではなく、とりわけ公務員保育士の初任給は多くの業種における新卒新入社員のものと同等程度らしい。
低賃金で問題になるのは民間で働く保育士らしく、官民格差が大きい職種のようだ。
同じ仕事をしているのにどうしてこうも待遇に差があるのだろうか。
給料の出所や認可・無認可の違いも視野に入れれば施設の運営方法も大きく変わってくるので、その理由に関しては想像を巡らすことも容易いが、同じ仕事なのに給料が違う点には理解はできても納得はできない。
労働の対価、つまり給料は何で決まるのだろうか。
能力、労働時間、責任の大きさ……。
計る要素はいくつかある。能力に関しては業種ではなく個人によるものだが、残業もこなしつつ子供の命を預かる保育士の給料が安いのは解せない。
だから安倍首相が表明した保育士の給料を月額6000円引き上げるという案にも、まだまだ足りないと言いたくなる。
けれども、保育士の給料を上げようと思えば、自ずと保育料の割り増しも視野に入る。
しかし保育園の利用者は家計のために子供を預けて働きに出るのだから、それも多くの方が困ることになる。
保育料にお金がかかれば収入も減るわけで、一体何のために子供を預けて働きに出ているのかわからなくなってしまう(これに関しては後日改めて考えてみようと思う)。
保育士と言う仕事は需要があり、責任も重く、とても難しく根気のいる仕事である。
子供と遊んでいるだけのように見えるかもしれないが、全くそうではない。
日々の活動予定や事後の報告書の作成、連絡帳の記入、イベントの計画や準備。それらをやりつつ、子供たちの面倒を見る……。
子供を産んでわかったが、世界で一番可愛いと思える自分の子供の面倒を見ることですら気に病みそうになってしまうこともあるのに、何人もの他人の子供の面倒を見るのは体力的にも精神的にも大変だろう。
それでも「子供がかわいいから」と、この過酷な労働環境に飛び込んだり頑張り続けている保育士は多い。
しかし、薄給でもそう言って頑張ることを美徳と感じるのはお門違いだ。
その労働にはしかるべき対価があるべきなのだ。
同じことをしているのに働く場所が違うだけで、どうして生活苦に陥らなければならないのだろうか。
重労働低賃金は社会に蔓延している
労働に見合わない低賃金で生活に困窮しているのは保育士だけではない。
派遣労働者の多くもこの悶々とした気持ちを日々飲み込みながら働いている。
同じ場所で同じことをしているのに、給料もそのほかの待遇も全く違う。
格差や貧困という言葉がこの国に蔓延している今、労働の価値を見直してもらいたい。
労働の価値をしっかりと推し量ってこそ、資本主義社会なのではないだろうか。
低賃金で人材を使い倒す現状は、今はなんとかなっても確実に未来を潰してしまう。
そのように口では簡単に言えるけれども、実際は保育士のように簡単に給料を上げられない問題も多く潜んでいるだろう。
だからと言ってそのままにすることはできない。
どうすれば解決できるのか、一般人なりに考えつつ、何か良いことを思いついたらこの場に書きとめることにする。
ここで匙を投げないで考え続けることこそ、変化の小さな小さな第一歩になると信じて。
一般人なりに社会について考えてみる。
結婚と出産を経て、社会に対する姿勢が変わった。
それまで全く気にしてこなかった行政や税金について、驚くほど気にするようになったのである。
婚姻届けのために戸籍を取り寄せるところから始まり、様々な書類を出したりもらったりするようになり、その都度サービスを受けたり義務を果たしたりしている。
予防接種をはじめとする医療に関することや子育て支援には大いに助けられるが、不意に届く税金の料金収納を見ると血の気が引く。
住民税や所得税などの最低限の生活にかかってくる税金だけでも、家計にはなかなかの打撃だ。
ではその分、行政サービスをしっかり活用できているだろうか。
欲しい行政サービスは実在するだろうか。
社会の中で生きていくには切っても切り離せない行政。そして法律。
昨今この国をざわつかせている憲法のことが気になると、政治にまで視野は広がってゆく。
これまで私は『政治や社会なんて所詮人が考えたもので、人のいるところにしかないものだから』とないがしろにして、全く見ようとも考えようともせずに自然科学にばかり目を向けてきた。
しかし今はそれを反省している。
自分は地球で活動するいち生命体であると同時に、社会に生きる人間だ。人として、日本国民として社会に生きる限り、政治も経済もとても大切なことなのだ。
今はこう考えて、これまで何も勉強してこなかった分、少しずつではあるが社会科目を勉強するようにしている。
勉強するようになれば、自ずと自分の考えも出てくる。
ここではそうして湧き出た自分の考えを書き留めていこうと思う。
まだ知識も浅いのでそれほど深い考察もできないかもしれないし、細心の注意を払っていても時に間違ったことを書いてしまうかもしれない。
けれどもそれを怖れず書いていくことに決めた。
自由に政治を考え語ることは日本国憲法の下で生きられる日本国民に許されたことであるし、一般人が真剣に考えていくことこそが民主主義の政治にとって一番大切なことだと思うからである。
この国にいきる者として、一般人だからこそ。
拙いながらも社会の一部であるいち日本国民として、この国のことを考えてみようと思う。